葬儀の本来の役割 仏教界の現状と親鸞会の立場
何やら、葬式のことが話題になっているのが目につきました。
「今朝、祖母が亡くなったんだけど、葬式がめんどくさくて仕方がないの」(はてな)
ここでは、人が亡くなると訳分からない間に葬式・法事がなされ、僧侶に高い布施が積まれる「システム」が既に確立されていることが実に気に食わない、という内容が書かれてあります。
それに対する意見は賛否両論、実に興味深いものがあります。
で、上のブログ主は相当怒っているようですが、ここでは「葬式仏教」と揶揄される伝統仏教界についてはもの申しません。
いつもの親鸞会の調子と違うんじゃないか?と言われそうですが(笑)。
都会のような「人間関係」が希薄な場所では、葬儀も小規模になりがちです。
規模が小さくなると、その葬儀の意義すら薄れてくるのも当然かと思います。
田舎の話をしますと、都会への若手流出は止まらない昨今、冠婚葬祭がない限り、都市部に出ている若者が帰省する機会がありません。
葬式ともなれば、普段見られない顔が続々集まってきます。
そして「お前最近どうだ」「こっちの家は継がないのか」だの、故人そっちのけで日頃できない身の上話に花が咲きます。
そう、田舎では葬儀は一つの「コミュニケーション」の場所、と言えばいいのでしょうか。
それにしても、折角集まってくる親類縁者に対して、会話と酒で終わっては、何ともわびしい限りです。
浄土真宗では、と言いますか親鸞会では、この「葬儀」こそ、参列者一人一人が自分の人生を問い直し、心を鎮めて仏法に耳を傾ける機会であると捉えているのです。
「えっ?親鸞会でも葬儀あるの?」と言ってくる人がたまにありますが、もちろん浄土真宗という仏教宗派の看板を掲げていますから、葬式法事は親鸞会でも行われます。
親鸞会の葬儀は、特に変わったことはありませんが、読経の後には必ず「説法」が行われるのが大きな特徴と言えるでしょう。
どんな人でも、たとえ宗派が違う人であろうとも、葬儀の法話ぐらいは耳を傾けることでしょう。
そんな機会がなければ、日頃「仏教」を聞く縁のなかなか無い人が多い訳ですから、「尊い」時間となることに違いありません。
一人の死を通して、仏の教えを聞く……これが、本来求めるべき葬儀の姿であり、浄土真宗親鸞会が変わらず続けていることなのです。
それが実行できていない寺が多いから、「ビジネスとしての坊主と葬式」だのと批判を受けてしまうのでしょう。
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