森山直太朗の歌詞は「生」へのメッセージとなるか?
森山直太朗の新曲「生きてることが辛いなら」の歌詞が、自殺をあおっているのではないかと物議をかもしているようです。
生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日と経てば元通り
なるほど、確かにそう読めます。
自殺をあおっているというより、「三日と経てば元通り」というのがかなり酷な歌詞ですね。いくらなんでもそれはないでしょうに。
最近の凶悪犯罪などを見るに、「生きてることが辛いから、誰でもいいから他人も道連れに」と無差別殺人する人が多々見られます。
そんな身勝手な報道を見て「死にたければ他人を巻き込まずに一人で死ねよ」と言う人がいるのも事実です。
言い換えれば「いっそ小さく死んでくれ」ということなのでしょう。
この歌詞は、それを代弁しているのでしょうか?
ただ、その後に続く歌詞には
気が付きゃみんな年取って
同じとこに行くのだから
とあります。
生きていることが辛いからといって、死に急がなくなって、みんなやがて同じ「死」を迎えるんだからさ、という意味でしょうか。
結局最後は
生きてることが辛いなら
嫌になるまで生きるがいい
とありますので、歌全体としては死を求めるものではなく、「頑張って生きろ」のメッセージなのでしょう。
でも、今が辛いのに「嫌になるまでもっと生きろ」というのも、残酷な気もします。本当に辛い人の心には、届かない言葉かもしれません。
それは、答えではないからです。
『なぜ生きる』(高森顕徹:監修)には、次のようにあります。
〝人生の目的は生きること〟という主張を検証してみましょう。これを「忍耐して、生きつづけることが大切だ」と解釈すれば、
「そう、何ごとも辛抱が肝心。大事なのは生きること」
「一度きりの人生だから、生きることにこそ価値がある」
と共感する人も、少なくないでしょう。「人生に意味なんてあるのだろうか」と元気のない人でも、「生きている、それだけで人生には意味があるのだよ」と聞けば、慰められるのかもしれません。
しかし、「苦しいのに、なぜ生きねばならぬのか」と悩んでいる人は、「生きることが人生の目的」と言われても、失望するだけではないでしょうか。答えになっていないからです。なぜ答えにならないのか。
たとえば「なぜジョギングするの?」とたずねて、「体力をつけるため」と言われれば、誰でもわかりますが、「ジョギングするためにジョギングしている」と答えられたら意味不明です。「なぜ塾通いをするか」に「大学に合格するため」なら納得できても、「塾に通うために塾に通う」では、ナンセンスというほかないでしょう。
「なぜ生きるか」の問題に、「生きるために生きる」の解答は、言葉の意味からいってもおかしいのです。
森山直太朗の歌詞に限らず、意外と「生きるために生きる」とある歌詞も多く聞かれます。
Oh Life Oh Life
生きるために 生きていくの
中島美嘉 『LIFE』
ほら あの青空の虹のように きれいに輝いてください
あなたは生きる為に生まれてきたのですよ
二葉百合子 『命尊し』
歌詞になるほど共感を呼びやすい内容なのでしょうが、その「落とし穴」にも気付くべきでしょう。
「生きてることが辛い」人は、どうすりゃいいのさ。
決して、生きるのが「嫌になるまで生きる」ために生きているのではない。「生きてよかった」と大満足する「人生の目的」がある。その為に生きている命なのだから……。
その「生きる目的」を、親鸞聖人は明らかに教えられました。
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