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親鸞会の法話 法味あふれるにぎわい

親鸞会

 浄土真宗の、本来あるべき姿が、親鸞会には存在します。

 毎日新聞のサイトに「本願寺広島別院(1934年)=中区寺町◇露店や門徒でにぎわう」が掲載されているのを読みました。

 広島市寺町は、西本願寺広島別院を中心に真宗寺院が多く立ち並ぶことで地元では有名な町です。
「別院は別格。子どもが気軽に入って遊べる雰囲気じゃなかった。」
と、記事中のインタビューでもあるように、子どもが遊ぶ場所を選ぶ時でも躊躇するほど、おそらく昭和初期までは法が説かれ厳粛な空間であったに違いありません。
 県内各地から強信な安芸門徒が集まった「報恩講」は、さぞかし賑わったことでしょう。

 ところが、今の現状については「最近は報恩講でも説教を聞くとすっと帰る人が多くなった。これも時代かな」ともらす程。
 法話に集まる人が少なくなったことを時代の流れのせいにするのは仏教界のみならず宗教全般に見られる傾向ですが、それは半ば諦めの言葉であり、根本原因であるとは言えません。

「親鸞聖人の教えを正しく伝える」ところには、当然、人が多く集まってくることを、親鸞会の存在が証明していると言えましょう。

 毎年行なわれる親鸞会の報恩講は、2000畳の大講堂に聞法者があふれ、みなさん真剣に聞き求められます。
 もちろん、ご法話が終わってすっと帰る、どころか、そのまま同朋の里へ行って信心の沙汰でにぎわいますよ。

 それは珍しい光景ではありません。
 浄土真宗の、本来あるべき姿なのでしょう。広島の別院には、少なくとも戦前にはまだそれが残っていただけのことです。
 

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